青春の街、吉祥寺(1)
6月23日(火曜日)
妻と「吉祥寺」に行ってきた。
思い出の街だ。
今から47年前、僕は18歳。
大学受験。
高校3年間遊び呆(ほう)けた「つけ」がまわってきた時だった。
5校ほどエントリーしたんだが、僕に門戸を開いてくれた大学は、福島県郡山市のおだやかな田園風景の中に立つ名門校と、長男が卒業した柔道の強い大学の2校だけだった。
柔道の強い大学は、じつは受験していないにも関わらず合格通知が届いたから、当時けっこう驚いた。
ただ、あの頃のその柔道の強い大学は、怖そうな人たちしかいないイメージがあり、文学少年だった僕にはいささか合わないと思われ、入学を辞退した。
そういえば、当時文理学部に通っていた3つ違いの兄が父親に、
「譲司をあの大学に行かせちゃだめだ!」と、祈るように訴えていたのを思い出した。
その意味を、兄が生きているうちに聞いておくべきだった。
郡山の大学は、福島県の方には申し訳ないが、僕は、白川の関を越えると、喘息(ぜんそく)の発作が出る性質(たち)だったため、ここも辞退した。
父親の「1年ぐらい無駄にしてもいい。」との、ありがたい言葉に甘え、校歌で有名な「都の西北、早稲田のとなり」にある有名な予備校で、灰色の浪人生活をはじめた。
人はよく浪人時代を「灰色の」と言うが、僕にとってのその1年間は思い出を作った「バラ色」の、そして「琥珀(こはく)色」に輝く1年間だった。
茨城から世田谷のアパートに引っ越したその夜、憧れの街「吉祥寺」に行ったんだ。
「ジャズの街、吉祥寺」
茨城にいたときから、そのフレーズは心から離れなかった。
47年前、まず、吉祥寺の街で「コーヒー」を飲んだ。
最初に入った喫茶店が、「シュベール」という店だった。
サンロードの入口をハーモニカ横丁の方に左折し、すこし行った左側の地下にある素敵な喫茶店だった。
階段を降りドアを開けると、そこにはたくさんのレコードが置いてあるオーディオルーム。
店内は広く、店の四つ角にJBLの3wayスピーカーが設置され、常にジャズが流れていた。
ジャズ喫茶ではないからスピーカーからの音量は小さいが、コーヒーも美味しいし、とても居心地の良い喫茶店だった。
生活するに困るわけでもないのに、その店の蝶ネクタイをしている強面(こわもて)のマスターのところに行き、
「ここでアルバイトさせていただきたいのですが・・・」
と、何の迷いもなくお願いしていた。
「えっ!そうなんだ・・・でも、今、募集してないんだよねー・・・」
「バイト料いらないので、働かせていただけませんか?」
「そんなわけにはいかないよ・・・お店、気に入ったの?」
「JBLのスピーカーとアルテックのアンプが・・・」
「そっかー、ジャズ好きなんだー。誰が好きなの?」
「今はオスカーピーターソンです」
「オスカー・ピーターソンかー。まだ、メジャーじゃないけどね、でも、いいよね。そっかー、ジャズ好きなのかー・・・ 明日からおいで!夕方4時30分から11時30分まで。3回遅刻したらクビだよ。無断欠勤は1回でクビ!時給は330円。それでいい?」
「もちろんです。ありがとうございます!」
「おいおい、予備校生!何やってんだ?」
そんな声がどこからか聞こえてきた。
ものすごい後ろめたさの中での、生まれてはじめてのアルバイトが始まった。
バイト先「シュベール」の裏に、伝説のジャズ喫茶「Funky」はあった。
僕が通いはじめた年に吉祥寺パルコの建設が始まり、「Funky」は取り壊され、今の場所(PARCO前)に移ったんだ。
僕は、昔の「Funky」を知っている最後の世代だったんだな。
今のお店は2階だが、あの頃は地下と1階だったような気がする。
名品中の名品スピーカー「JBLパラゴン」は健在だった。
妻が、僕に気付かれないように、我が家にある「オスカー・ピーターソン」の「You look good to me」をお願いしてくれた。
「パラゴン」の横にお気に入りの「オスカー・ピーターソン」のジャケットが立てかけられた。
「時」が「思い出」という風に吹かれた瞬間だった。
ここ「Funky」で・・・
(つづく)

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